南木佳士

阿弥陀堂だより

作家としての行き詰まりを感じていた孝夫は、医者である妻・美智子が心の病を得たのを機に、故郷の信州へ戻ることにした。山里の美しい村でふたりが出会っ たのは、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らす老婆、難病とたたかいながら明るく生きる娘。

静かな時の流れと豊かな自然のなかでふたりが見つけたものと は…。

阿弥陀堂だより (文春文庫)阿弥陀堂だより (文春文庫)
南木 佳士

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参考レビュー

映画とは違う小説の印象

むしろこの物語の主軸は主人公の男性の幼少からの人間の成長の記録のように感じます。私が女性に共感できなかったわけがやっと分かった気がしました。しかし不思議なことにそれはこの女性への共感とは別のもので、他人事のような気持ちでした。

その後ふとしたときにこの小説を手に取り読んだとき気づきました。そして互いが互いを必要としているのだと。

小説では映画と違い、夫の生い立ちや妻との出会いなどが詳細に書かれています。私はこの小説を世の中の男性に多く読まれることを希望します。

仮にあれらの格言が女性の立場らから語られていたとしたら私たちはそこまで感銘を受けなかったことでしょう。

私は医者というような立派な身分ではありませんが、生きることに疲れ、心も体も病んでいくという女性の立場と気持ちは痛いほどよく分かりました。

表面的には妻が病気を克服して強い自分を取り戻す話が大きく取り上げられているように見えますが、私にはそれらの過程は一つのエピソードにすぎないように感じられます。

女性は強いようでもろく、壊れやすい。男は一見弱くても自分の役割をきちんと理解していて、そしてそれを律儀に守る。自然が多い環境で心が癒され生きる喜びを得て自信を取り戻していく主人公の姿に安心感を覚えました。

ああ、これはこの女性が主人公なのではなく、それを支えるふがいない男性が主人公の話だったのだと。仕事に追われる毎日に疲れ、会社を辞める決心をしたときに、友人に勧められて観たのがこの本の映画版でした。

そしてこの小説は私に男と女の違いは何かということも考えさせました。なによりも、おウメ婆さんの人生の格言のような便りををまずはじめに読み、それに感銘し、読者の心に訴えかけさせるのはいつも必ず男性のほうなのです。

妻の病気との直面や戸惑い、自分自身と向き合う葛藤、そして妻への無償の愛が美しい文章に包まれて淡々と描かれています。

日本的な自然の美しさだけで満足

はて、私はへそ曲がりなのかな?でもこの映画は自然を描きながら夢のような不自然を追っているような映画に思えませんか。でも、この自然との凭れあいが癒しなのかな。できたら田舎の人だけを主人公として描いて欲しかった。

そんな人が癒されたといっても何か不自然で何の喜びも無い。だって手術なんかできて高額所得者の女医さんだよ。

女医が心を病んでも「死の棘」の様な人間の根源の厳しい話で無いから緊張感に欠けている。だって麿はいたって貧しい人間だし、もっと貧しい心の人が救われなきゃァ嘘だと思う。

今流行の誰でも自然のふるさとに行けば人間らしい心に戻れるという当たり前のものである。そうすれば、田舎のばあさんの中にも因業ばあさんがいることがわかる。

とっても自然の美しさがすばらしい。人間は確かに心の故郷のような自然の中で死ねれば事実であれ錯覚であれ幸福である。これは田舎や自然に回帰するすばらしい映画」と吼えてみても、将来は、私たちはほとんどが都会で死ぬんだ。

これじゃ単なるセンチメンタルだよ。そして田舎のほのぼのとした90歳を過ぎたおうめばあさんがそこにいたら癒されるだろうなあ。

映画は夢だ。だからこの映画は逆にすばらしい。でも女医は人間らしい人生を外れているなんて言えない人で強い人だよ。

観客や読者に、今の時代は田舎を提示すれば受けるというかえって嫌らしい打算的な臭いがするものだ。さて自分ながら麿の批評も逆説めいてきた。